「明日、ママがいない」の内容変更について思うこと
自分はテレビってほとんど深夜アニメくらいしか観ないのですが、
最近は1クールに1本くらいはドラマも観ていて、今クールは「明日、ママがいない」を観てます。
そのドラマなんですが、
児童養護施設に預けられた子供たちが主人公の、割とドラスティックな内容で、
第1回の放送時から何かと非難が出ていた模様。
「明日ママ」で日本テレビが慈恵病院を訪問 内容変更の方針を伝達 | ハフポスト
で、ついに先日、製作元の日テレが内容変更すると発表しました。
僕自身は楽しんで観ていた*1ので、内容変更は純粋に残念ではありますが、
それ以上に、こういう「不適切だ!内容変更しろ!訂正しろ!中止しろ!」みたいなクレームについて、
ちょっと思ったことがあったので書きます。
「公共のものだから規制しなくてはいけない」は正しいのか
と言っても、既に多くの人が言っているような、
「抗議や圧力によって自由に番組が作れなくなる」ことへの危惧を書きたいわけではなく、
また、「こういう抗議をしてる人って、結局正義の味方やってる自分が気持ちいいだけなんだよね」
みたいなことを書きたいわけでもありません。
前者に関しては、まぁ表現の場は何もテレビだけじゃないわけだし、
作りたいもの作れる場所は他にいくらでもあるから特に危惧してない。
(というかそういう環境はむしろどんどん増えてる)
後者については割と同意する部分もありますが、
それについては以下の記事が良さげだったので僭越ながら貼っておくことにします。
で、じゃあいったい何を書きたいのかというと、
「テレビは公共の電波使ってるんだから、100人が100人とも文句を言わないようなものしか放送しちゃダメ」
みたいな論理は、本当に正しいのかなぁという話です。
僕自身も実際そのように考えているところはありますし、
だからこそニコニコ動画を初めて観た時には、
「これはテレビにはできないことができるツールだ」と思いました。
テレビは公共の電波という「みんな」の財産を使っている。
だから「みんな」から文句が出ないようにそれを使わないといけない。
これに対してニコニコは、世の中の99%が興味なかったり、むしろ嫌だと感じるような内容だけど、
1%が絶賛してくれるようなものを表現できる。
前に何かの記事で、Gunosyの社長か誰かが、
「将棋の電脳戦みたいなのは、テレビにはできない。ニコニコにしかできない。」
みたいなことを言ってた覚えがあるんですが、
僕もテレビっていうのはある種そういうものだと思っていたんですね。
それがつい先日、これまたテレビなんですが、
「アナザー・スカイ」という番組で、猪子寿之さんというクリエイターさんがシンガポールに行く放送をやっていて、たまたまそれを観ました。
内容としては、
シンガポールは街中に未来都市なのか何なのかわけのわからないものが沢山建っていて、
表現の場として「ヤバイ」。
当時大した実績もなかった自分にもチャンスをくれたし、すごい面白い都市だ。
みたいな内容だったんですが、
その中にひとつ、
「世の中の誰からも文句は言われないけど、誰からも無視されてるみたいなものより、
文句も言われるけど、賞賛もされるようなものを作ってる方が、豊かになる」
みたいな言葉がありました。
ちなみにこれは空間デザイン的なものの話なので、利用しているのは景観という公共財です。
同じ公共財なのに、電波を使ってるテレビと、景観を使ってる空間デザインとで、
一方は誰からも文句言われちゃいけなく、
もう一方は多少文句言われても良いから、賞賛してくれる人が沢山いる方が良い、
というようになる理由ってあるんだっけ?
確かにテレビは日本中どこにいてもリモコン1つでアクセスできる。
でもそれはニコニコ動画だって同じはずだ。
確かにテレビは電波という公共財を使ってる。
でもそれは空間デザインだって同じはずだ。
であるならば、テレビ番組の内容が誰からも文句言われちゃいけないのは、なんでだ?
仮にお茶の間の娯楽がテレビしかなく、
他に選択肢がないなら誰からも文句言われちゃいけないのはわかります。
でも実際のところ、現代にはものすごくたくさんの選択肢がある*2。
そんな時に、「誰にも文句言われないもの」を作っていても、無視されるだけです。
もちろん公共財を使う以上、権利者の最大幸福を実現しなくてはいけないのはそうだと思います。
でもそれは、一部の声の大きな人たちの抗議によって決まってはいけない。
政治は、一部の人のデモではなく全員の選挙によって決まるのです。
市場の選択肢が増え、テレビ局がそれに応じて手を打とうとしているのに、
他の選択肢を取ろうとせず、変更内容に文句を言うのは、
UI変更にクレームつける古参ユーザーみたいなもんです。
大事なのは面白いものを作ることであって、文句を言われないことではないはず。
僕としては、世の中の公共財の使われ方は、
そういう方向に進んでいってほしいなぁと思います。
終わり。